2020年入試センター試験の廃止とそれにかわる「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の導入の是非  和田秀樹 著『受験学力』を読みながら考える

和田秀樹 著『受験学力』(集英社新書 2017年3月22日発行)は、2020年に劇的に変わる大学入試制度について論じた本である。中学生、高校生、あるいは受験生本人だけでなく受験生を持つ親なら気になる制度改革であろう。

この本を読む前に、まず 平成26年12月22日に中央教育審議会が出した答申、新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申)(中教審第177号)PDF)に目を通してみよう。サブタイトルは、

~すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために~

となっている。安倍内閣の「美しい国、日本」を思い起こさせるようなきれいな言葉がしょっぱなから出てきて、なんだか不安にさせられる。なぜ教育改革が必要かということに関しては、

生産年齢人口の急減、労働生産性の低迷、グローバル化・多極化の荒波に挟まれた厳しい時代を迎えている我が国においても、世の中の流れは大人が予想するよりもはるかに早く、将来は職業の在り方も様変わりしている可能性が高い。そうした変化の中で、これまでと同じ教育を続けているだけでは、これからの時代に通用する力を子供たちに育むことはできない。

と述べられていて、そりゃ確かにその通りだと思う。目的に関して言えば、

子供たちに育むべきこのような力を言い換えるならば、それは「豊かな人間性」「健康・体力」「確かな学力」を総合した力である「生きる力」にほかならない。

と述べられていて、まあ異論はないが、現実的なことを言えば、「自分でお金を稼ぐ力」を身につけさせるのが教育の一番の目的だろう。教育のあり方に関する論点としては、

このうち「学力」については、戦後からの長い間、「自分で考え自分で実行する」型の教育と、体系的な知識を注入する型の教育との間で議論が繰り広げられてきた。過去の学習指導要領の改訂に際しても、「ゆとり」か「詰め込み」かのような二項対立的な議論がなされてきた。

こうした二項対立を乗り越え、平成19 年の学校教育法改正により、「基礎的な知識及び技能」「これらを活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力」「主体的に学習に取り組む態度」という、三つの重要な要素(いわゆる「学力の三要素」)から構成される「確かな学力」を育むことが重要であることが明確に示されたところである。

とまとめられている(太字は当サイト)。学校教育の現状に関しては、

しかしながら、我が国が成熟社会を迎え、知識量のみを問う「従来型の学力」や、主体的な思考力を伴わない協調性はますます通用性に乏しくなる中、現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがちで、思考力・判断力・表現力や、主体性を持って多様な人々と協働する態度など、真の「学力」が十分に育成・評価されていない。

と厳しく批判しているが、何十年も聞いてきたようなセリフである。”大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち”ということに一言、言わせてもらうと、これは入試が悪いというよりも、入試対策を施している高校の先生、塾の先生、受験生本人の勉強のやり方のまずさに起因しているところが大である。大学入試問題をよく見てみれば、決して知識の暗記・再生を試すような問題ばかりではなく、思考力を問う問題も良問も数多く見受けられる。思考力を問う問題だから、思考力を養えばよいだけの話なのに、高校生が楽しようとして、解法のパターンの暗記に走るし、それを推奨する塾も多いのが問題なのだ。これはもう、人間の性(さが)の問題なので、入試制度をいじったからといって変わるというものではない。面接試験を導入したとしても、面接の受け答えのパターンを求める受験生と、そのパターンを教える塾が量産されるだけである。本当に変えるべきものは、高校生や高校の先生、塾の先生の頭の中の思考回路、勉強に対する態度なのではないか。

こうした状況では、それぞれの夢を育み、その中で自らを鍛えるとともに、秘められた才能などを伸ばすことはできず、未来のエジソンやアインシュタインとなる道や、世界を舞台に活躍する潜在力、地方創生の鍵となる問題の発見や解決を生み出す可能性の芽なども摘
つまれてしまう。

として、教育改革の正当性を主張しているが、エジソンは小学校に入学後3ヶ月で先生とそりがあわずに退学していて、その後は自宅で独学している(ウィキペディア)。アインシュタインも、ユークリッド幾何学、微分、積分は独学により習得しているそう(ウィキペディア)。なので、あまり説得力がない。エジソンやアインシュタインの逸話から学ぶべき教訓は、独学できるくらいに十分な暇を中学生、高校生に与えてあげるべきということだろう。現在の中学や高校は授業の進度も速く、宿題も多く、それに加えて多くの生徒が塾に通っているので、自分が一番興味のあることを勉強する時間が作り出せていない。そういったことをみても、問題は大学入試じゃなくて、大学入試により恐怖と不安を煽られた中高生や学校の教師たちである。

学校の教育方針が選抜性の高い大学への入学者数を競うことに偏っている場合には、高等学校教育が、受験のための教育や学校内に閉じられた同質性の高い教育に終始することになり、多様な個性の伸長や幅広い視野の獲得といった、多様性の観点からは不十分なものとなりがちである。こうした教育では、大学入試に必要な知識・技能やそれらを与えられた課題に当てはめて活用する力は向上させられたとしても、自ら課題を発見し解決するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力や、主体性を持って、多様な人々と協働しながら学んだ経験を生徒に持たせることはほとんどできない。

これは正論だし、主張は的を射ていると思う。”自ら課題を発見し解決するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力や、主体性を持って、多様な人々と協働しながら学んだ経験”は、大学院に進学した場合に、必須の能力になってくる。そういう意味で、むしろ大学と大学院との間に大きなギャップが存在している。もちろん、大学と会社(社会)との間にもギャップがある。

なぜ高校生は勉強するのかという動機に関しては、

知識量の多寡で進学先の難易度が決定される環境において、受験勉強が学習への動機付けになってきた。

とまあ当たり前のことを指摘していて、残念ながら多くの場合これが当たっている。現在みられる入試の多様化に関しては、

またAO入試、推薦入試の多くが本来の趣旨・目的に沿ったものとなっておらず、単なる入学者数確保の手段となってしまっていることなど、現行の多くの大学入学者選抜における学力評価が、学力の三要素に対応したものとなっていないことが大きく影響していると考えられる。

とばっさり切り捨ているが、図星であろう。大学で学ぶ意義に関しては、

大学教育の場が、多様な学生が切磋琢磨する環境となっておらず、また、自分が将来社会で活動することと大学で受ける教育がどのように関係しているのか、明確でないことが多い。その結果、主体性を磨くことなく、自ら目標を持ってそれを実現していく力を身に付けないまま、社会に出る学生も多い。

という現状を指摘している。これは、大学は実学を身につけるべき場所なのか、教養を身につけるべき場所なのかという議論になるだろう。心の豊かさを得ることが目的であれば、実学一辺倒であってはならない。その議論をすっとばして、社会ですぐに役立つ知識を教えるべきだというのは暴論である。すぐに役立つ知識ほどすぐに古くなって役に立たなくなることは、社会で働いている人なら誰でも経験的に知っている。と思いながら、読み進めていたら、次に、

大学において育成すべき力とは何かを明らかにした上で、大学入学者選抜や高等学校教育との連携の在り方を変えていかなければ、大学入学のその先を見据えた、自らの人生を切り拓くための目標を高校生に持たせることも難しい。

と正論が書いてあった。そうそう、そういうこと。

また、大学入学者選抜については、前述のように、知識の記憶力などの測定しやすい一部の能力や、選抜の一時点で有している能力の評価に留まっていたり、丁寧な評価よりも学生確保が優先されるなど、高等学校教育で培ってきた力や、これからの大学教育で学ぶために必要な力を評価するものとなっていない。そうした背景には、年齢、性別、国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ高校生一人ひとりが、高等学校までに積み上げてきた多様な経験や能力を度外視し、18歳頃における一度限りの一斉受験という画一化された条件において、知識の再生を一点刻みで問う問題を用いた試験の点数による客観性の確保を過度に重視し、そうした点数のみに依拠した選抜を行うことが「公平」であるという、従来型の「公平性」の観念が社会に根付いていることがあると考えられる。

現在の入試制度は公平かどうかということに一石を投げかけている。大学受験で志望大学に合格した人で、社会に出てさまざまな不条理さを経験した人たちはみな一様に、大学入試だけは非常に公平な制度だったと回顧する。しかしここで指摘されているように育った環境ですでに大きな不公平が存在するのは確かである。たとえば、東京都内に住んでいる高校生からみた東京大学と、辺境に住む高校生から見た東京大学とでは、その心理的な距離が大きくことなる。当然ながら同じ程度の学力の持ち主がいたとしても地方の高校のほうが東大進学率は低くなる。

18歳頃における一度限りの一斉受験という特殊な行事が、長い人生航路における最大の分岐点であり目標であるとする、我が国の社会全体に深く根を張った従来型の「大学入試」や、その背景にある、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏は断ち切らなければならない。大学入学者選抜は、一時点の学力検査によってその後の人生を決定させるためのものではない。

これもありふれた議論なのだが、18歳のときのペーパーテストの点数で一生が決まるというのは、たしかに、大学によっては入れる会社が異なってくるという点ではその通りともいえる。しかし、人生が全て決まるのかと言えば、実際にはそんなことはない。いい会社に入ることが幸せの条件という前提からそういう思考に狭められているだけである。そもそも、その点を改善すべきだというのであれば、それは、新卒の大学生を雇う会社側の価値観の問題である。別に入試制度が悪いわけではない。入試制度をどういじったところで、東大、京大を頂点とする大学の序列を社会が認めている限り、何も変わらないであろう。

多様な方法で「公正」に評価し選抜する

これは全く矛盾した物言いである。評価選抜の方法が自分に不利になった高校生は、アンフェアと感じるだろう。入試でディスカッションを課すれば、口数の少ないシャイな人間は圧倒的に不利になる。

大学入試制度に手を加える根拠として、以下のような主張が繰り広げられている〔太字は当サイト)。

高大接続改革を実現するためには、高等学校教育及び大学教育を、上記1.(2)に示したような力を育成するにふさわしい教育内容、学習・指導方法、評価方法、教育環境へと大きく転換させなければならない。また、こうした改革のための現実的問題として大きく立ちふさがるのが、大学入学者選抜の在り方である。現在直面する最大の課題は、高等学校教育と大学教育とを接続する重要な役割を果たすべき大学入学者選抜において、上記のような育成すべき力の在り方を踏まえた評価がなされていないことである。接続段階での評価の在り方が変われば、それを梃子の一つとして、高等学校教育及び大学教育の在り方も大きく転換すると考えられる。高等学校教育改革、大学教育改革の実効性を高めるためにも、大学入学者選抜の改革に社会全体で取り組む必要がある。

なんだか入試制度が諸悪の根源のような書き方だが、何度も言ってきたように、そうではない。今の高校生の勉強方法を見ればわかるが、思考力を問う問題なのに、解法のパターンの暗記で対処しようとしている人が驚くほど多いのである。つまり、高校教育がまったくなっていないということだ。いっそ、全ての大学をクジ引き制にしたほうがいいんじゃないの?とすら思える。

高等学校教育については、生徒が、国家と社会の形成者となるための教養行動規範を身に付けるとともに、自分の夢や目標を持って主体的に学ぶことのできる環境を整備する。そのために、高大接続改革と歩調を合わせて学習指導要領を抜本的に見直し、育成すべき資質・能力の観点からその構造、目標や内容を見直すとともに、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法であるアクティブ・ラーニングへの飛躍的充実を図る。また、教育の質の確保・向上を図り、生徒の学習改善に役立てるため、新テスト「高
等学校基礎学力テスト(仮称)」を導入する。

さっきからこの文書に出てくる、”行動規範”の類の言葉もどうも気になる。現行の教育制度や入試制度とあまり関係しないと思うのに、なぜかスルリと当たり前のような顔をしてこの文書のなかに入り込んでいるのはなぜなのか?だいたいアクティブ・ラーニングって何だよ?へんなカタカナでわかったような気になって使っているのかしれんが、中身を説明せずに言葉を一人あるきさせるのはやめてほしい。ウィキペディアによると、

技術や社会環境が急激に変化し、教育機関で学んだ内容がすぐに陳腐化してしまう現代の知識基盤社会において、将来にわたって必要なスキルを身につけさせる学習法として注目され、国内外で様々なアクティブ・ラーニングが実施されている。その多くは発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワーク等を有効に取り入れており、このような授業はアクティブラーニング型授業とよばれている[1]。

ということらしいが、発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワークの能力が大学入試で測れるものなのか?甚だ疑問に感じる。そもそも今の高校の先生がこういったことを教えられるのかも疑わしい。

大学教育については、学生が、高等学校教育までに培った力を更に発展・向上させるため、個々の授業科目等を越えた大学教育全体としてのカリキュラム・マネジメントを確立する(ナンバリングの導入等)とともに、主体性を持って多様な人々と協力して学ぶことのできるアクティブ・ラーニングへと質的に転換する。

大学教育にもケチをつけてきたが、ここでもまたカリキュラム・マネジメントとか、ナンバリングとか、意味不明のカタカナを定義なしに使っている。この答申の文書は、易しい漢字に振り仮名を振っている一方で、説明なしにカタカナを導入していてどうも気持悪い。

さて、いよいよ核心部分が10ページに現れた。

大学入学者選抜においては、現行の大学入試センター試験を廃止し、大学で学ぶための力のうち、特に「思考力・判断力・表現力」を中心に評価する新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」を導入し、各大学の活用を推進する。

センター試験を廃止し、代わりのテストを導入するという。これは、中高生にとっては大ショックだろう。18歳で人生が決まってしまうと思い込まされているうえに、その人生を決めるテストがどんなものになるのかわからないわけだから、これほど恐ろしい話はないに違いない。

二次試験に関しては、

各大学が個別に行う入学者選抜(以下「個別選抜」という。)については、学力の三要素を踏まえた多面的な選抜方法をとる14ものとし、特定分野において卓越した能力を有する者の選抜や、年齢、性別、国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等にかかわらず多様な背景を持った学生の受け入れが促進されるよう、具体的な選抜方法等に関する事項を、各大学がその特色等に応じたアドミッション・ポリシーにおいて明確化する。このために、アドミッション・ポリシー等の策定を法令上位置付けるとともに、大学入学者選抜実施要項を見直す。

まあアドミッション入試をやれということらしい。たしかに今の東大みたいに、一部の私立高校から度大量に合格者が出ているのは異常だと思うので、いっそ、各県ごとに定員を割り振るとかしてもいい。あるいは、一つの高校からの受け入れに上限を設けるとか。男女半々にするとか。しかし、これって文科省がわざわざ”指導”すべきことなのか?入試科目などは今でも大学が決めているのだから、もっと自由にやってね、の一言でいいような気がするのだが。この強制感が不気味だ。

何よりも重要なことは、個別選抜を、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を問う評価に偏ったものとしたり、入学者の数の確保のための手段に陥らせたりすることなく、「人が人を選ぶ」個別選抜を確立していくことである。

社会人ならみなわかるが、人が人を選ぶときに基準となるのは、多くの場合、好き嫌いの感情である。それを大学入試の場に持ち込むのは非常に危険だ。一瞬で初対面の人から好感を持たれる方法を受験生に指導できる塾がこれから流行るんじゃないか。

また、そうした評価に転換するためには、大学入学者選抜を含むあらゆる評価において、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を問い、その結果の点数だけを評価対象とすることが公平であると捉える、既存の「公平性」についての社会的意識を変革し、それぞれの学びを支援する観点から、多様な背景を持つ一人ひとりが積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価するという理念に基づく新たな評価を確立していくことが不可欠である。

何が公平なのかをこの答申では勝手に決め付けているが、本来はここから国民レベルで議論すべきではないのか。従来の入試制度に公平さを感じている人はかなりの数に上るはず。それこそ主体性を持って勉学に励んだ人間が認められて合格する制度に、これほどけちをつける理由があるんだろうか?

一人ひとりの人間の生涯を通して見た時に、多様な背景を持った学習者一人ひとりの能力が最大限に磨かれるように教育の機会が均等に与えられるという意味での「公正性」を確立していくべきであり、その一部として大学入学者選抜における「公正性」を理解すべきと考えられる。

だから悪いのは入試制度じゃなくて、レールから外れた人間にチャンスを与えない社会なんじゃないか!?

各大学は、求める学生像のみならず、各大学の入学者選抜の設計図として必要な事項をアドミッション・ポリシーにおいて明確化することが必要であり、高等学校及び大学において育成すべき「生きる力」「確かな学力」の本質を踏まえつつ、入学者に求める能力は何か、また、それをどのような基準・方法によって評価するのかを、アドミッション・ポリシーにおいて明確に示すことが求められる。現行法令上、アドミッション・ポリシーの策定が明確に規定されていない点も課題であり、法令上の位置付けを検討する必要がある。

アドミッションポリシーの制定を法律で強制するのか?どんな学生に来てほしいのかは、実は入試問題に現れているのだが。いろいろな大学の入試問題を実際に見て見ると、実は、大学入試問題には非常に明確な大学からのメッセージが発せられている。こういう類の問題が解ける生徒に来てほしい、と訴えかけているのである。まあもちろん、アドミッションポリシーを明文化して公開してくれたほうがはるかにわかりやすいから、その点は賛成するが。

具体的な評価方法としては、下記②に示す「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の成績に加え、小論文、面接、集団討論、プレゼンテーション、調査書、活動報告書、大学入学希望理由書や学修計画書、資格・検定試験などの成績、各種大会等での活動や顕彰の記録、その他受検者のこれまでの努力を証明する資料などを活用することが考えられる。

これをやると、大学入試にあたって受けの良いお稽古事が流行るだけで、全然公平じゃなくなる。それこそお金持ちでいろいろな習い事やアクティビティができる家庭の子供が圧倒的に有利になる。”その他受検者のこれまでの努力を証明する資料”って、努力を認めるように変えるんですか?努力の結果が点数に表れるから今の入試制度はフェアなんだって。いや、これは高校生とその親御さんを惑わせるだけでしょ。調査書も使えって、高校で先生に睨まれた生徒はもう絶望的じゃないですか。学校に馴染めなくても独学で頑張った人間が報われる現行制度が絶対いいって思う。結局、貧富の差や要領の良さで合否が決まることになりそう。調査書を使うということになると、生徒にとって高校が収容所になる恐れもある。調査書を盾に生徒を脅して従順にさせようとする高校の先生も出てくるかもしれない。そうなると全くフェアではない。

スーパーグローバル大学等をはじめとする、国内外で活躍できる次世代リーダー等の育成を目指す大学においては、リーダーとして活動するために必要な力とは何かを明確に示し、大学の使命としてその育成を目指すとともに、多様な学生が切磋琢磨する環境作りが不可欠である。

スーパーグローバル大学ってなんじゃ?そもそも大学をスーパーグローバルとそうでない大学にグループ分けしているあたりで、国がそもそも「格差」を露骨に作り出している。スーパーグローバルじゃない大学に行ったらリーダーになれないというわけじゃないのに。学歴偏重を批判している一方で、同じ文書内で、変なエリート意識を植え付けようということもやっていて、なんだか矛盾している。

すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために

というこの文書のサブタイトルと逆行しているじゃないか。

選抜性が中程度の大学における大学入学者選抜の現状を見てみると、個別選抜で二科目前後の特定科目を課す形態が多いが、大学独自の作問が負担となっていることの影響などから、知識量のみを問う問題となっていることが多い。今後は、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」を積極的に活用しつつ、思考力・判断力・表現力等を含む「確かな学力」を総合的に評価する個別選抜へと転換する。

今でもセンター試験利用の私立大学はあるんだから、それで十分じゃないのか?なぜ、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が必要なのかが全くわからない。

AO・推薦入試が本来の趣旨・目的に沿ったものとなっていないなど、入学者選抜が機能しなくなっている大学においては、下記(2)に示す「高等学校基礎学力テスト(仮称)」17の結果を含めた高等学校の学習成果を、調査書の活用等により確実に把握することや、活動報告書の提出や面接の実施等により、大学教育に求められる水準の学力を担保する。

だから、その役割ならセンター試験で十分果たせるでしょう。”高等学校の学習成果を、調査書の活用等により確実に把握”って、そんなものよりも実際に試験したほうが確実に把握できるに決まっているではないか。調査書ということは、高校の先生の主観が入るということなんだから。もし、”選抜性が中程度の大学”を受ける受験生にとってセンター試験が難しすぎるというのなら、簡単バージョンを作ればよい。そういう主旨での「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」ならまあわかる。

個別選抜全体の中では、アドミッション・ポリシーを踏まえて、多面的・総合的な能力を有する者のみならず、科学や芸術などの特定の分野において卓越した能力を持つ者が、適切に評価される仕組みも重要である。

東大行くのに芸術ができなくてもいいんじゃないか?芸大に行けばいいのだから。特定の分野で卓越していることを評価するかどうかは大学に委ねればよい。

個別選抜における評価に当たっては、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行う従来型の「公平性」「客観性」と、多数の受験生に対して短時間で合否判定を行うための効率性を重視するあまり、面接、集団討論、小論文、調査書、その他による多元的な評価を重視しない傾向がある。この点に関しては、客観性とは何かについての意識改革18と併せて、個別選抜を行う側が、自らの都合のみにより選抜する方法ではなく、一人ひとりの入学希望者が行ってきた多様な努力を受け止めつつ、入学者に求められる能力を「公正」に評価し選抜する方法へと意識を転換し、アドミッション・ポリシーに示した基準・方法に基づく多元的な評価の妥当性・信頼性を高め、説明責任を果たしていく必要がある。

だから、”画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行う従来型の「公平性」「客観性」”という決め付けはやめなさい!って。思考力を問う問題がちゃんと出題されていることを無視した暴論だと思う。”一人ひとりの入学希望者が行ってきた多様な努力を受け止めつつ”って、努力の量はどうでもよくて、多様な能力が客観的に示されている場合にそれを大学側の判断で考慮すればいいではないですか。

こうした多元的な評価に対応した具体的な手法としては、主として複雑な課題に知識・技能を活用して探究し表現することを求める「パフォーマンス評価」、そうした複雑な課題の達成度を数段階に分け、達成度を判断する基準を示す「ルーブリック」、様々な学習過程や成果の記録等を蓄積して学習状況を把握する「ポートフォリオ評価」等が着実に開発されているところである。

だからカタカナはやめてって。ルーブリックって何?カタカナ言葉をつかったとたん何かを表現したきになるのは危険。精神療法でも、ブリーフセラピーってあるけど、名前は何も表していないし、それと変わらないんじゃないの?

毎年50万人以上が受験する大規模な試験である現行の大学入試センター試験は、大学入学希望者の基礎的な学習の達成度を判定するという本来的な役割のみならず、高等学校教育における質の保証が課題視される中で、高校生の一定の基礎学力の確保に大き
な役割も果たしてきたと評価することができる。一方で、大学入試センター試験は「知識・技能」を問う問題が中心となっており、これからの大学入学者選抜において評価すべき「確かな学力」の在り方や、下記(2)に示す、高等学校段階の基礎学力を評価する新テストの導入なども踏まえると、「知識・技能」を単独で評価するのではなく、「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力」を総合的に評価するものにしていくことが必要である。

だったら、センター試験をちょっとずつ変えればいいじゃない?なんで廃止する必要があるの?あまりにも荒っぽすぎるし、最初の年度の子供たちがかわいそう過ぎる。

「知識・技能を活用して、自ら課題を発見し、その解決に向けて探究し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力」

”自ら課題を発見”って、そりゃそれができるのならご立派なんだが、具体的にどういうった課題発見を高校生に期待しているのかが全くわからない。

「思考力・判断力・表現力」

今でも論述式の問題を二次試験で課している大学は多いのだから、別に1次試験でそれをしなくてもいいのではないか。50万人が受験する試験を論述式にすると、採点者によるばらつきや採点ミスが多発して、かえってものすごく不公平なことになりそう。

資格試験的利用を促進する観点から、年複数回実施

合格と不合格しかないのだとしたら、大学側は選考に使えない。もし点数化するのであれば、受験生は全部の機会を利用して少しでも高得点を得ようとするので、むしろ受験競争が低学年かして過熱するだけ。

「1点刻み」の客観性にとらわれた評価から脱し、各大学の個別選抜における多様な評価方法の導入を促進する観点から、大学及び大学入学希望者に対して、段階別表示による成績提供を行う

いや、それじゃ不公平でしょう。1点の差をどう考えるかは、大学が決めればいいことであって。

CBT方式での実施を前提

だからカタカナとか横文字はいきなり使わないで欲しい。何、CBTって。

民間の資格・検定試験の活用

民間と癒着ですか。

選抜性の高低にかかわらず多くの大学で活用できるよう、広範囲の難易度とする。特に、選抜性の高い大学が入学者選抜の評価の一部として十分活用できる水準の、高難度の出題を含むものとする。

だったら、今のセンター試験を廃止せずに、教科書の例題レベルの問題を増やせばいいだけじゃないの?

具体的には、例えば①言語に関する「思考力・判断力・表現力」について、②こうした力を主に育成する国語・英語を、③他教科・科目(例えば理科)と組み合わせ、理科の文脈の中で言語に関する「思考力・判断力・表現力」を評価する問いを作問する、といったことが考えられる。

これは現行の英語の試験問題をみても、実際にそういった出題がある。

高等学校における教育内容については、「国家及び社会の責任ある形成者として、自立して生きる力」を育む観点を一層重視することが必要であり、そのための教養と行動規範を涵養することを含めた取組の充実を、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」の導入と並行して進める。

この答申、最初のほうは、すべての若者が夢を育めるようにという調子で書かれていたのに、いつの間にか論調が変わって、”国家及び社会の責任ある形成者”とか”行動規範を涵養すること”とか、色彩が変わってきている。気持ち悪い。

国家や社会の形成者となるための教養と行動規範、また自立して社会生活を営むために必要な力を、実践的に身に付けるためのカリキュラムを充実させること

これ、国の言いなりになって、しっかり稼いで税金をちゃんと払う人間の育成といっているように思えてきた。

「高等学校基礎学力テスト(仮称)」と「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」とは、目的や性格の違いがある一方で、CBTの導入や両テストの難易度・範囲の在り方など、共通に検討すべき事項が多く、一体的な検討が必要である。出題範囲についても、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」は、6教科の必履修科目について、主として学力の基礎となる「知識・技能」を評価するものであり、「大学入学希
望者学力評価テスト(仮称)」は、主として「思考力・判断力・表現力」を評価するものである。両者はテストの目的だけでなく出題範囲についても異なっているが、高等学校から大学への学力の円滑な接続を図るために、両テストの難易度をできるだけ連続的にすることが必要である34。

やっぱり意図が読めない。現行のセンター試験が一部の高校生にとって難しすぎて客観的な学力の物差しが欲しいのなら、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」をつくっていいと思う。そしたら、センター試験を「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」に挿げ替える必要はない。知識偏重だというのなら、センター試験の出題傾向を緩やかに変化させていけばよい。そうすれば、受験生も困惑させられるのが少なくてすむ。

本答申の理念に基づく高大接続改革は、一部の大学や一部の選抜方法のみで推進されるのでは足りず、各大学が実施する個別選抜全体において実現されなければならない。その際、大学入学希望者が培ってきた力を確認し提示するマイルストーンとしては、多様な挑戦の機会が与えられることが望ましい一方で、いたずらに選抜が早期化・複雑化することにより、高等学校教育の本来の目的が大きくゆがめられる危惧もある。大学入学者選抜が双方の観点を踏まえた秩序ある形で行われるよう、新たなルールを構築していかなければならない。このため、国は、適切なルールの下での入学者選抜全体の多面的・総合的な評価への転換を図るため、一般入試、推薦入試、AO入試の区分を廃止し、大学入学者選抜全体の共通的な新たなルールを構築する36ために、大学入学者選抜実施要項を抜本的に見直すこと。

なんですと!!この文書、深いところまで読みすすめてきたら、どんどん後だしじゃんけんみたいに過激になってきてるではないですか。”一般入試、推薦入試、AO入試の区分を廃止し、大学入学者選抜全体の共通的な新たなルールを構築”って、大学の主体性を奪うぞって宣言しているのか、これは?なんだかものすごい怪文書に思えてきた。ヘンデルとグレーテルが迷い込んだお菓子の家のような気持悪さが湧いてきたんですが。

国は、各大学におけるアドミッション・オフィスの整備・強化や、アドミッション・ポリシーの明確化が実現されるよう、主体的に改革に取り組む大学にとってインセンティブとなるような財政措置の在り方を検討し、具体策を取りまとめること。あわせて、国は、新たな個別選抜の在り方の開発支援を行うとともに、基盤的経費の配分における新たなルールの要件化や加算化、各種の大学改革のための補助金の応募条件における要件化の工夫など、主体的に改革に取り組む大学にとってインセンティブとなるような財政措置の在り方を検討し、具体策を取りまとめること。

凄い、国の言うことを聞く大学にはお金をやるが、いうことを聞かない大学にはお金をやらないぞとほとんど脅しに近いことが書いてある。教育の多様化と謳っていて、一見素晴らしい理念のようにみえるが、実際には国が大学の自由を奪って支配的になって、画一化を目論んでいるではないか。なんだか、第一回目の新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」には、この答申の文書を読ませて課題を発見させて議論させるのがいいんじゃないかと思いついた。どんなもんでしょう?

さて、いつから入試制度が変わるのかが気になりますが。

「高等学校基礎学力テスト(仮称)」と「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」について一体的な検討を行い、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」については平成31年度から、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」については平成32年度から段階的に実施すること。

平成32年度は、2020年ですね。

特に、従来、企業内訓練等が担っていた人材育成機能が、雇用環境の変化により失われつつある中、特に高等学校及び大学において、これからの時代に求められる力を確実に育成し、子供たちを社会に送り出すことが、以前にも増して必要となっている。我が国の将来の社会構造の在り方や、そのために必要な人材像、これからの教育において育成すべき資質・能力の在り方も社会的に共有しつつ、特に、高等学校・大学の卒業生、大学院の修了者の就職先における人材開発・人事採用等の長期的展望と、本答申に基づく改革をしっかりと接続していく必要がある。

また言うことが変わっているじゃないですか。「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」だったのが、「国家と社会の形成者となるための教養行動規範を身に付ける」ようにとなり、「社会に必要な人材」ときました。この答申は筋が通っていませんね。ぐわっと捻じ曲げてきています。なんだろう、この気持悪さ。こういう文書ってあまり今まで見たことがないので。最初から最後までぶれないで一本筋が通った文章というものが、本来あるべき文章なはずなのですが。誰が執筆したんだろうと思っていたら、29ページに委員の方々の名簿がありました。

第7期中央教育審議会委員 平成25年2月15日発令 (50音順)

  1. 会 長 安西祐一郎 独立行政法人日本学術振興会理事長
  2. 副会長 小川 正人 放送大学教養学部教授、東京大学名誉教授
  3. 副会長 北山 禎介 三井住友銀行取締役会長
  4. 相原 康伸 日本労働組合総連合会副会長、全日本自動車産業労働組合総連合会会長
  5. 明石 要一 千葉敬愛短期大学学長、千葉市教育委員会委員、千葉大学名誉教授
  6. 五十嵐俊子 日野市立平山小学校長
  7. 生重 幸恵 特定非営利活動法人スクール・アドバイス・ネットワーク理事長、一般社団法人キャリア教育コーディネーターネットワーク協議会代表理事
  8. 浦野 光人 株式会社ニチレイ相談役、公益社団法人経済同友会幹事、公益財団法人産業教育振興中央会顧問、一般社団法人アグリフューチャージャパン理事長、一般社団法人日本経営協会会長
  9. 衞藤 隆 社会福祉法人恩賜財団母子愛育会日本子ども家庭総合研究所所長、東京大学名誉教授
  10. 大島 まり 東京大学大学院情報学環教授、東京大学生産技術研究所教授
  11. 尾上 浩一 公益社団法人日本PTA全国協議会会長
  12. 小原 芳明 玉川大学長
  13. 帯野久美子 株式会社インターアクト・ジャパン代表取締役、一般社団法人関西経済同友会常任幹事、大阪市教育委員会委員
  14. 河田 悌一 日本私立学校振興・共済事業団理事長
  15. 菊川 律子 放送大学特任教授(福岡学習センター所長)
  16. 北城恪太郎 日本アイ・ビー・エム株式会社相談役、公益社団法人経済同友会終身幹事、学校法人国際基督教大学理事長
  17. 櫻井よしこ ジャーナリスト、公益財団法人国家基本問題研究所理事長
  18. 篠原 文也 政治解説者、ジャーナリスト
  19. 白石 勝也 愛媛県松前町長
  20. 高橋 香代 くらしき作陽大学子ども教育学部長、岡山県教育委員会委員
  21. 田邉 陽子 日本大学法学部准教授
  22. 長尾ひろみ 公益財団法人広島県男女共同参画財団理事長
  23. 橋本 昌 茨城県知事
  24. 橋本 都 八戸工業大学副学長、前青森県教育委員会教育長
  25. 濱田 純一 東京大学総長
  26. 早川三根夫 岐阜市教育委員会教育長
  27. 平尾 誠二 神戸製鋼ラグビー部ゼネラルマネージャー、特定非営利活動法人スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構理事長
  28. 無藤 隆 白梅学園大学子ども学部教授兼子ども学研究科長
  29. 森 民夫 長岡市長
  30. 吉田 晋 学校法人富士見丘学園理事長、富士見丘中学高等学校校長、日本私立中学高等学校連合会長
    (30名)

こんな重要なことがこんなに少数の偏った人たちの議論によって決められてしまうのか、と驚きます。この文書、最後まで読んできましたが、結局のところなぜセンター試験を廃止する必要があるのか、これっぽっちも理解できませんでした。というか納得できませんでした。

さて、前置きが長くなりましたが、和田秀樹さんの『受験学力』を読んでみます。

しかし「従来型の受験学力」を否定し「新しい学力」を求めるこの改革は、格差のさらなる拡大の危険や子供のメンタルヘルスに悪影響をもたらす可能性が非常に高い。そもそも政府が否定する「従来型の学力」は本当に”悪”なのか。

いきなり、するどい指摘です。そうそう、そうだよ、と思います。日本人のノーベル賞受賞者はみな、「従来型の受験学力」の教育を受けてきて、華々しい成果を挙げているのです。そうそう簡単に丸ごと捨て去るべきものではないでしょう。ノーベル化学賞の根岸博士は、受験勉強で身につけた確かな学力がノーベル賞研究の土台になったという主旨の発言をされているくらいです。緩やかなに改善の道を探ればいいではないですか。長年にわたって積み上げてきたものをなぜいきなり捨てるような暴挙に出るのでしょうか、今の政府は?

文科省にへそを曲げられて補助金をもらえなくなれば、授業料を上げてもやっていける大学を除けば、研究費どころか職員の給料もだせなくなる。(12ページ)

私は、政府からの大学への脅し文句と受け取りましたが、その事情がしっかりと解説されていました。この答申を受けて、最終報告というものも出ていました。

高大接続システム改革会議「最終報告」の公表について 平成28年3月31日  高大接続システム改革会議高大接続システム改革会議においては、平成26年12月の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」、平成27年1月の高大接続改革実行プランに基づき、高大接続改革の実現に向けた具体的方策について検討してまいりました。このたび、その議論の内容を「最終報告」として取りまとめましたので、公表いたします。(PDF)

この文書も読まねばなりますまい。まずは教育改革の必要性を正当化するための背景説明から。

これからの時代に我が国で学ぶ子供たちは、明治以来の近代教育が支えてきた社会とは質的に異なる社会で生活をし、仕事をしていくことになる。国際的にはグローバル化・多極化の進展、新興国・地域の勃興、産業構造や就業構造の転換、国内では生産年齢人口の急減、労働生産性の低迷、地方創生への対応等、新たな時代に向けて国内外に大きな社会変動が起こっているためである。

社会が変化していることには誰も異論はありますまい。自分も肌でそれを感じます。

このような大きな社会変動の中では、これからの我が国や世界でどのような産業構造が形成され、どのような社会が実現されていくか、誰も予見できない。確実に言えるのは、先行きの不透明な時代であるからこそ、多様な人々と協力しながら主体性を持って人生を切り開いていく力が重要になるということである。また、知識の量だけでなく、混とんとした状況の中に問題を発見し、答えを生み出し、新たな価値を創造していくための資質や能力が重要になるということである。

ごもっともな主張でさほど異論はないのですが、どんなに社会が変化しても変わらないのは、自然の原理原則、人間の行動の原理、集団や組織の振る舞いといったものです。問題発見能力は必要ですが、その答えを生み出すときに必要になるのは、どれだけ物事を根本的に突き詰めて考えるかという能力です。基礎学力も当然大事。

こうした資質や能力は、先進諸国に追いつくという明確な目標の下で、知識・技能を受動的に習得する能力が重視されたこれまでの時代の教育では、十分に育成することはできない。次代を担う若い世代はもちろん、社会人を含め、これからの時代を生きる全ての人が、こうした資質・能力を育むことができるよう、抜本的な教育改革を進める必要がある。

新たな価値を創造するために必要なのは、常識にとらわれずに物事を根っこから考える力でしょう。

我が国と世界が大きな転換期を迎えた現在、この教育改革は、幕末から明治にかけての教育の変革に匹敵する大きな改革であり、それが成就できるかどうかが我が国の命運を左右すると言っても過言ではない。

幕末から明治への移り変わりを持ち出して、それと並べて正当化するのは、ただのレトリックにしか思えない。自分は説得力を感じない。

これからの時代に向けた教育改革を進めるに当たり、身に付けるべき力として特に重視すべきは、(1)十分な知識・技能、(2)それらを基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力等の能力、そして(3)これらの基になる主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度である。これからの教育は、この(1)~(3)(これらを本「最終報告」において「学力の3要素」と呼ぶ1。)の全てを一人一人の学習者が身に付け、予見の困難な時代に、多様な人々と学び、働きながら、主体的に人生を切り開いていく力を育てるものにならなければならない。このことは、今後、大学も含めた我が国の学校全体が、社会人や留学生も含めた多様な背景を持つ人々が集い、学ぶ場として発展していく上でも不可欠な課題である。

まっとうな主張なんだけど、その主張が今回の入試制度をいじることの正当性を裏付けることには全くならない。

その一方で、「学力の3要素」を踏まえた指導が十分浸透していないことが課題として指摘されており、その背景として、現状の大学入学者選抜では、知識の暗記・再生や暗記した解法パターンの適用の評価に偏りがちであること、一部のAO入試や推薦入試においては、いわゆる「学力不問4」と揶揄されるような状況も生じていることなども指摘されている。

ここがちがうんだってば。入試が悪いんじゃなくて、偏差値で大学を序列かしてすこしでもいいとされる大学に生徒を送りこんで進学実績をアピールしようとしてやっきになっている高校教育が相当いびつになっている。高校生をとりまく、そういう固定観念が変わらないかぎり、入試制度がどれだけ変わったところで、何も変わらない。単に新しい入試制度に対応して同じような受験指導が始まるだけ。頭を使って考えるのって疲れるんですよ、人間であれば誰しも。だから、受験生は少しでも頭を使わずに入試を切り抜けようとする。だから、何も変わらない。大学を序列化している意識が日本に蔓延していることが一番の元凶。大学をスーパーグローバルでリーダー養成学校と、そうでない社会で即戦力になる労働者養成大学とにグループ分けしている段階で、そもそも文科省もそういうった大学の序列化を推進しているわけで、そのような意識が一番の問題なのに、問題点を摩り替えている。もっと言えば、入試制度に口出しすることで、文科省による大学支配の体制を強めようとしているように見える。高校生のことを本気で考えてあげているのなら、こんな暴挙ともいえるような制度の変化を唐突に導入したりしないでしょう。

いまだ一方的な知識の伝達にとどまる授業も見られる。さらに、各大学の掲げる教育理念の実現に向け、受け入れた多様な学生に対し、高等学校教育との円滑な接続を図りながら、体系的・組織的な教育活動を実施し、学生の力をどれだけ伸ばし、社会に送り出せているか、すなわち、充実した大学教育の実施を通じて卒業時の「出口」を充実させることができているかについての社会からの評価も依然として厳しい。

夢とか希望とか教養とかいう言葉を一方で使いつつ、社会での即戦力養成の本音のほうが大きくみえる。特に、スーパーグローバルでない大学に関してはそういう狙いなんでしょう。

先行きの不透明な社会にこぎ出していく人々に不可欠な資質・能力を育成する場である高等学校や大学は、我が国社会の基盤を形成するための公共財というべきものである。また、置かれた境遇を問わず、我が国で学ぶ全ての人々が、充実した教育を通じて高い資質・能力を身に付け、それぞれの選ぶ道で輝き活躍することができるようにすることは、世代を超えた経済格差の再生産を防止する上でも大きな役割が期待されるものである。このような教育の公共性を踏まえ、高大接続システム改革の早急な実現に向け、国としての明確な方策を打ち立てるとともに、関係者はもちろん広く社会全体で知恵を出し合いながら取り組む必要がある。

なんか部分部分見ると正論だし、文句ないんだが、全体に滲み出るうさんくささは何なのだろう?言っていることとやっていることズレか。全体の主張を、各論がサポートしていないということか。

結構、各教科で学ぶ内容についても口出しをしていますね。

特に、国語科、地理歴史科、公民科、外国語科、情報科における必履修科目の在り方については、各科目における現状の課題等を踏まえ、各科目の内容のみならず、共通必履修科目の設置や科目構成の見直しなど、抜本的な検討を行う。例えば、地理歴史科においては、「世界史」の必修を見直し、共通必履修科目として、我が国の伝統と向かい合いながら、自国のこととグローバルなことが影響し合ったりつながったりする歴史の諸相を近現代を中心に学ぶ科目「歴史総合(仮称)」や持続可能な社会づくりに必要な地理的な見方や考え方を育む科目「地理総合(仮称)」を設置する。また、公民科における共通必履修科目として、主体的な社会参画に必要な力を人間としての在り方生き方の考察と関わらせながら実践的に育む科目「公共(仮称)」を設置する。

我が国の伝統と向かい合いながら、自国のこととグローバルなことが影響し合ったりつながったりする歴史の諸相を近現代を中心に学ぶ”のはいいとしても、”持続可能な社会づくりに必要な地理的な見方や考え方を育む”は具体的に何を学ばせたいのかあまりわかりません。

なお、歴史系科目や生物など、高等学校教育における教材で扱われる用語が膨大になっていることが学習上の課題となっている科目については、各教科の見方や考え方につながる重要な概念を中心に、用語の重点化や構造化を図ることが重要であると議論されている。

特に理数教育については、スーパーサイエンスハイスクールにおける取組事例なども参考にしつつ、数学と理科の知識や技能を総合的に活用して主体的な探究活動を行う選択科目として「数理探究(仮称)」を新設する。

理系のエリート教育を施したいということでしょうか。

これからの時代においては、「何を知っているか」だけでなく、「知っていることを使ってどのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」という観点から、知識・技能、思考力・判断力・表現力等、人間性や学びに向かう力など情意・態度等に関わるものの全てを総合的に育んでいくことが求められる。こうした必要な資質・能力を総合的に育むためには、学びの質や深まりが重要であり、課題の発見・解決に向けて生徒が主体的・協働的に学ぶ、いわゆるアクティブ・ラーニングの視点からの授業改善を図ることが必要である。

自分にはこのアクティブ・ラーニングというものがどうもピンとこない。学ぶという自体、もともと主体性を伴う行為なわけで、それをわざわざ主体的にまなぶアクティブラーニングといわれてもねえ。

また、研修については、アクティブ・ラーニングの視点からの学習・指導方法の改善など新課題に対応した研修を実施するとともに、初任者研修や十年経験者研修などの法定の研修や各都道府県の教育委員会等が計画・実施する各種の研修はもとより、自発的・継続的な研修を行っていくことが重要であり、教育委員会や校長だけでなく、教員一人一人が研修の意義や重要性を理解し、その活性化に努めていくことが必要である。

正直言って今の高校の先生にこの改革をいきなりやれといってできるとは到底思えない。現場を混乱させるだけでは。

高等学校段階においては、日々の授業に加え、運動・文化部活動や生徒会活動、ボランティア活動、各種大会、就業体験など様々な個々の生徒自身の活動が行われているところであり、このような日々の活動や日常の生活を通じて培われる幅広い資質・能力について多面的な評価を行っていくことが重要である。

部活を頑張った生徒はいい大学に入りやすくなるのか?

生徒の多様な資質・能力を、評定や観点別評価の中だけで表すことはできない。生徒一人一人の進路に応じた多様な可能性を伸ばすためには、生徒の幅広い資質・能力を多面的に評価し、育成していくため、学校内の活動での学習成果だけでなく、一人一人の生徒の目標や進路等に応じて自主的に行われる学習等についても、学びの成果として評価して指導の改善に生かしていくことが重要となる。

この日本語は何を言っているのか解りにくい。

一人一人の進路に応じた多様な可能性を伸ばし、その後の大学や専門学校などの高等教育機関での学修や社会での活動等へと接続させていく上で、高校生自らが将来のために何に取り組んでいくべきかを考え、その取組を自覚的に振り返ることを通して、主体的に学びに向かい、自発的なキャリア形成を促していくことが重要である。

高等学校教育段階において、生徒自らが設定した将来の目標に向かい、どのような学びを重ねてきたのか、そこから何を学んだのかについて、高等学校入学から卒業までを通して、自覚的に振り返ることや、それを踏まえて教員が生徒の学習状況等を把握し、目標達成に向けた助言を行ったり、進路指導を行ったりすることを促す取組を推進する。

このため、小中学校を中心に「キャリア・ノート」の作成と次段階の学校への引継ぎ等の取組が行われていることを参考に、ポートフォリオ評価の観点やキャリア教育の観点を取り入れながら、上記の取組の推進に向けた具体的な方策を検討する。また、当該取組を児童生徒の主体的な学びにつなげていくための方策について、次期学習指導要領に向けた議論の中でも、より検討を深めていく。

なんだか凄いことが書いてある。大学生でも将来何をやりたいかはっきりしない人が多いのに、高校生のときから将来のキャリアを考えさせることを国が強制するというのか?はっきり言って、将来のキャリアどうこうよりも、今夢中になれるものを見つけてそれに熱中してれば十分なんじゃないのか、子供時代って。なんなんだろうこの押し付けがましさは。

基礎学力の不足、学習意欲の低下 ○ 平日、学校の授業時間以外に全く又はほとんど勉強していない者が高等学校3年生の約4割となっているほか、1990年代以降における高等学校2年生の学習時間の推移について、学力26中上位層の学習時間には大幅な減少からの改善傾向が見られるものの、下位層の学習時間については低い水準で推移していることを示す調査結果もある27。

勉強って別に学校の勉強だけが勉強じゃないし。勉強時間が少ないことをここで持ち出して、この報告書は何がいいたいのかよくわからない。

さらに、諸外国の生徒に比べ、「自分は価値ある人間だ」という自尊心を持っている者の割合は低く29、「自らの参加により社会現象が変えられるかもしれない」という意識も低い30。加えて、本を読まない高校生は約5割と小中学校段階に比べその割合は高くなっており、新聞を読まない高校生も4割を超えている31。

これは家庭教育の問題で、高校は関係ない。

大学教育においても同様の傾向が見られ、高等学校段階の教育内容を扱う補習授業を実施している大学数は、全体の約51%に当たる378大学(平成25年度)になっている32。

今回の入試制度変更で、この傾向がさらに強まるのは明らかではないか!?

「高等学校基礎学力テスト(仮称)」における対象教科・科目は、高校生の基礎学力の定着度合いを把握する観点から、国語、地理歴史、公民、数学、理科、英語において、全ての生徒に共通して履修することが求められる必履修科目を基本とする。

「高等学校基礎学力テスト(仮称)」の出題に当たっては、「学力の3要素」のうち、基礎的な「知識・技能」を問う問題を中心としつつ、「思考力・判断力・表現力」を問う問題をバランスよく出題することとする。

えっ!言ってきたことと違うじゃないですか?なぜ、知識が中心なんですか?やっぱり、今回の改革は首尾一貫したものを感じないなあ。

各大学においては、Ⅲ2.(2)イで述べたガイドラインを参考としつつ、「学力の3要素」に関し、入学希望者にどのような能力を求めるのか、それをどのような具体的な方法で評価するのかを入学者受入れの方針において明確化するとともに、入学者受入れの方針と具体的な評価方法との関係について、また、様々な評価方法をどのような比重で活用するのかなどについて、責任を持って説明できるようにする。具体的な評価方法としては、例えば、次のようなものが考えられる。
・ 「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の結果
・ 自らの考えに基づき論を立てて記述させる評価方法
・ 調査書
・ 活動報告書
・ 各種大会や顕彰等の記録、資格・検定試験の結果
・ 推薦書等
・ エッセイ
・ 大学入学希望理由書、学修計画書
・ 面接、ディベート、集団討論、プレゼンテーション
・ その他

調査書とか推薦書等を課すのは酷だと思う。フェアじゃない。同じ大学を志望する複数の生徒から推薦書を頼まれた場合にどうするのという問題がある。そもそも、社会的に地位の高い人とつながりのある親を持つ生徒は、ピカピカの良い推薦書(=社会的権威を持つ人からの推薦書)を得られる可能性が高くなるので、それこそ社会格差が増長されることになる。

一部のAO入試や推薦入試などにおいては、いわゆる「学力不問67」と揶揄されるような状況も生じており、入学後の大学教育に支
障を来すことが問題となっている。○ AO入試・推薦入試が本来の趣旨・目的68に沿ったものとなっていないなど、現在、入学者選抜で学力の評価が十分に行われていない大学については、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」の結果を含めた高等学校の学習成果を調査書の活用等により確実に把握することや、活動報告書の提出や面接の実施等により、大学教育に求められる水準の学力を担保することが、高大接続改革答申において提言された。

なるほど、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」は、全入制の大学に歯止めをかける狙いもあったのか。

各大学で学ぶ力を備えているか判断するための方策の一つとして、調査書等をより有効に活用することが重要である。具体的には、例えば、各大学において、・ 入学後の教育内容等を踏まえ重要と判断する教科・科目を指定し、高等学校での単位修得や一定水準以上の具体的な評定の獲得を出願要件として求めること・ 各大学で育成を目指す人材像を踏まえ、特定の活動歴や資格・検定試験の成績等について合否判定において評価すること

高校の成績が悪い生徒はいい大学への進学ができにくくなるというのは可哀想。高校生は囚人じゃないんだから、先生にどんな成績をつけられるかを気にして生活したくはないだろう。

例えば、次のような内容が考えられる。
・ 民間や専門高校の校長会等が実施する各種検定試験等の結果
・ 国際バカロレアなど国際通用性のある大学入学資格試験における成績
・ 科学オリンピック等における成績
・ 各種大会・コンクールや顕彰の記録
・ 部活動やボランティア活動の状況
・ 生徒会活動の状況
・ 留学や海外活動の経験
・ その他生徒が自ら関わってきた諸活動 など

部活やボランティアやるときまで大学入試を意識しないといけなくなるのは、全然自主性を育てることにならないではないか。大学にウケる課外活動が何か?で頭を悩ますことになるのか、本当に可哀想だと思う。そんなわけのわからない評価方法よりも、学力試験の点数で一点刻みで振り分けるほうがよっぽど公明正大だと思う。

(次期学習指導要領下における基本的枠組み(平成36年度~))
○次期学習指導要領の趣旨を十分に踏まえ、大学入学者選抜における共通テストとして、特に思考力・判断力・表現力を構成する諸能力をより適切に評価できるものとする。
・ 地理歴史、公民については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、歴史系科目においては、歴史的思考力等を含め、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力の判定機能を強化する79。具体的には、歴史系科目については、共通必履修科目である「歴史総合(仮称)」と、世界史及び日本史に関する選択科目で構成することが、また、両選択科目は、「歴史総合(仮称)」で身に付けた歴史的事象の見方や考え方、思考力
・判断力・表現力等を生かして学習を深める科目とすることが検討されており、そのことを踏まえた適切な出題科目の在り方を検討する。
・ 中央教育審議会で次期学習指導要領での導入が検討されている「数学と理科の知識や技能を総合的に活用して主体的な探究活動を行う新たな選択科目」(「数理探究(仮称)」)に対応する科目を出題する。その際、「数理探究(仮称)」については、失敗を繰り返し試行錯誤しながら探究を深めていく科目であること、探究の成果については、成果物の学術研究としての質の高さではなく、高等学校教育における学習としての質の高さが求められること、高度な知識の習得を求めるのではなく、新たな価値の創造に向かって探究していく基盤的な能力を育む科目であることなど、中央教育審議会において議論されている科目の在り方を踏まえて、内容を検討する。
・ 数学、理科については、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、事象の数量等に着目して数学的な問題を見いだす力、目的に応じて数・式、図、表、グラフなどを活用し、一定の手順にしたがって数学的に処理する力など、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。
・ 国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。
・ 英語については、「書くこと」や「話すこと」を含む四技能について、例えば、情報を的確に理解し、語彙や文法の遣い方を適切に判断し活用しながら、自分の意見や考えを相手に適切に伝えるための、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力を評価する。また、民間との連携の在り方を検討する80。
・ 次期学習指導要領における教科「情報」に関する中央教育審議会の検討と連動しながら、適切な出題科目を設定し、情報と情報技術を問題の発見と解決に活用する諸能力を評価する。

総論として、

今後の社会の在り方やその変容の動向を踏まえれば、大学入学者選抜においては、大学における学修や社会生活において必要となる問題発見・解決の能力、すなわち、主体性を持って多様な人々と協働しながら、問題を発見し、その解決策をまとめ、実行するために必要な諸能力を有しているかどうかを評価することが一層重要となる。

ということなんですが、どうなんでしょう?なんだか大学で教育すればいいことをわざわざ高校生に要求しているようにも見えるんですが。問題を発見し、その解決策をまとめ、実行するって、具体的に何をどうするのかよくわからないし、そのためにも基礎学力が必要だし。なんだか答申といいこの報告書といい、文字がうわっつらを滑っているだけで心に響いてこない。至極まっとうなことを言っているのにも拘らず、それと大学入試をいじることとが結びつかない。

さて、報告も読み終わったところで、『受験学力』に戻ります。

審議会の委員の先生たちを「御用学者」と呼んでいますね(14ページ)。そりゃそうでしょう。政府の意向に反対する大学の教授がこの場に呼ばれるはずもありません。

鳴り物入りで実施された東大のAO入試だって、たった一つの塾が合格者の6分の1をしめてニュースになった(ページ15)

そうだったんですか?やっぱり思ったとおり、入試制度をいじったところで、受験戦争の構図は何も変わっていないじゃないですか。今回の改革はやる前から失敗することが見えているというか、東大AO入試の失敗からなぜ学ばないんでしょう?

いちばん大きな問題は、そうでなくても今の学生たちの学力低下が問題なのに、その学力の向上より、別の学力を要求する姿勢だろう。

ズバリ、その通りですね。大学でなぜ高校レベルの授業をやらないといけないのか、という現実が全てを物語るわけです。だいたい、過去のセンター試験を遡ってみてみると、すくなくとも英語の問題をみるかぎり昔のほうが明らかに難易度が高いです。高校生のゆとり教育にあわせてセンター試験の難易度って下げたんですかね。

高い基礎学力があれば、応用学力を伸ばしやすい。私の知る限り、東大をでて、海外のビジネス・スクールなどの高等教育機関に留学して、落ちこぼれたという話をこれまでッきたことはない。(ページ18)

まさに、これです。基礎学力こそが全てなのです。そもそも難関大学の入学試験だって基礎学力あっての応用力を試す問題なわけです。

東大の理科三類に受かりたければ、2月25日の受験日までに、センター試験で9割とて、二次試験では440点中290点とれるようになればいいということである。〔19ページ)

へーって、数字ですね。東大理三の合格ラインというものを初めて知りました。

私がこの改革に反対なのは、面接にしても小論文にしても、集団討論にしても、これらは試験当日までに対策のできる種類のものであるが、その道のプロの指導を受けてトレーニングを受けた人とそうでない独学の人では、差がつきすぎるからだ。

つまり、プロを雇える人、プロに習えるだけの財力のある人でないと難関大学には入れなくなるということですね。いまどき、大学入試対策の参考書や問題集は一冊千数百円で買えます。この問題集をこなせば東大でも合格できる、みたいな触れ込みの問題集があるわけですから、本人がやるかやらないかだけの問題です。これなら、経済格差が全くハンディになりません。しかし、ディベートやプレゼンの指導を受けるとなると、参考書を買う値段ではすまないでしょう。親の財力が関係してきます。

私は、受験勉強における考える力というものは、目の前にあるペーパーテストの問題を考える力である異常に、今の学力でどうやって志望校に受かるかを考える力であるとみている。(26~27ページ)

これは非常に説得力があります。最近の高校生は今の学力で受かりそうな大学を志望する傾向が強いのですが、それだと入試制度をいじっても何も変わりませんが。結局足りないところを埋める努力とか、持っているものを伸ばす努力を受験勉強を通して実践して、いろいろ学ぶわけです。

受験勉強というのは他人を蹴落として受かるものではなく、合格ラインを突破すれば、他のやつが受かろうが落ちようが合格できるという意識を共有していたので、むしろ受験の時は学生同士が助け合った。(27ページ)

和田氏は、灘高には協同して学ぶカルチャーがあったと言います。

学問の自治を認めず、すべての大学に同じ改革を押しつけ、人々の意識まで変えろというこの「改革」は、私は、ゆとり教育派の巻き返しだと見ている。

文科省のPDFを読んでいて、自分も同じような押しつけがましさを感じましたが、同じ感覚かなと思います。教育制度の改革の歴史を軽く振り返っているので、まとめておきます。和田氏は、ゆとり教育路線に則った改革と見ています。

  • 2011年 学習指導要領 施行(2008年 改訂) カリキュラム増加(ゆとり教育の形式的な廃止)
  • 2002年 いわゆる「ゆとり教育」 施行 (1998年 改訂)
  • 1980~1982年 学習指導要領 施行(1997年 改訂) 戦後初めてカリキュラムの内容が削減された(それまでは増加傾向)
  • 1989年 学習指導要領 改訂 観点別評価の導入(施行 1992年小学校、1993年中学校、1994年高校)
  • 1984年 中曽根臨時教育審議会設置

これまでであれば、ペーパーテストで点をとってさえいれば、教師にどう思われていようと行きたい学校に行けたのが、j行中、意欲がないように見られてはいけない、居眠りもできないというのでは、非常にストレスの多い学校生活になってしまうだろう。(42~43ページ)

これは自分も経験があります。中学の時には、意味不明の言いがかりをつけてきた社会科の先生がいましたし、態度が悪いと成績を下げてきた数学の先生もいました。高校のときは体罰を振るうような数学の先生もいましたし、そんな人間に自分の行く大学が左右されるなんてまっぴらごめんです。全ての先生が人格者というわけではないことは、さまざまな先生の不祥事のニュースを見れば明らかです。大学入試の成績だけでいいというシステムに救われる生徒は多いはずです。そうでないと高校生活が教師との人間関係に依存した、ストレスフルなものになりかねません。

高校の調査所を重視して入試に加味することを強要するのは、「多様な背景をもつ学生を受け入れろ」という、「答申」や「最終報告」の提言とは完全に矛盾する。不登校の子供や、高校中退者、あるいは、高校時代いい加減にやっていたが大人になって一念発起して受験しようとする人間を確実に排除することになるからだ。(45ページ)

本当にその通りだと思います。文科省のこれらの文書は矛盾に満ちているのです。言行不一致もいいところです。大平光代さんみたいな人は教育改革後の学校にはいられないでしょう。

それ以上に私が問題視したいのは、このせいで教育格差がかなり拡大したということだ。学校で教わる内容が減ったところで、教育熱心な親をもつ子供や、経済力のある親をもつ子供は、当然、塾などの民間教育を利用して、これまで通り、あるいは、公教育が信用されなかった分だけ、私立学校に行って、これまで以上の学力を得ることになる。
ところが、そういう塾に行けない経済的に恵まれない家庭の子供はや、塾など民間教育が充実していない地域(当然、地方ということになる)の子供は、これまでより少ないカリキュラムしか受けられないことになる。(47ページ)

これは説得力のある議論です。

この改革の「答申」でも、「最終報告」でも、一読して感じることは、「従来型の学力」否定がまずありきであることだ。改革側のやり方が一面的で強制的なために、あちこちで矛盾が露呈している。
たとえば、これからは、高校や大学の中退者で再チャレンジを目指す人や、社会人、地域に貢献したい人など多様な背景をもつ人を選抜するようにといいながら、高校時代の調査書を入試に活用しろと大学側には強要している。中退者や不登校経験者などは、現在の観点別評価では調査書でいい点がつくわけがない。
少なくとも、これまでの私の経験からみても、彼らはペーパーテスト一発勝負のほうが、はるかに再チャレンジがしやすいはずだ。
しかも、多様な人材を求めよ、多様な思考をできるようにせよといいながら、すべての大学に同じような入試改革を押し付けている。
(中略)
そもそも、大学の入学者のセレクションや、その方法にまでこれだけ国家が干渉するということこそ、大学の自治への挑戦である。(49~50ページ)

和田氏が指摘しているとおり、たしかに矛盾だらけですね。さらに矛盾点の指摘が続きます。

特に面接で人間性を否定されるような形で落ちるということになれば、そのトラウマ(正確な意味ではないが日常用語として)は計り知れない。(52ページ)
今回の改革では、思考のプロセス、学校時代の意欲や態度というプロセスを重視する他、どのような表現で解答するかまで採点の対象にしようとする。要するに指向パターンや表現方法まで、自分たちの正しいと思うものにあわせることを強要するのだ。まさに「この道しかない」という考える人間を求めている。これでは、多様な考えができる人間をつくるという当初の思惑とは、全く逆の方向になりかねないだろう。(55ページ)
このやり方が実験であって、失敗したらすぐにやめるという発想が、今回の改革案からはまったく読み取れない。21世紀に通用する「正しい学力」と「それを身につけさせる方法論」に何の疑いももっていないという、およろ科学的精神に欠けた改革案であることが、私にはもとも問題であるように思える。(56ページ)

学校の調査書や面接の判断ポイントが、「意欲・態度」だといいながら、教師に反抗できたり、その意見に反対できる人間に高い点をつけろという風になっていない以上、イエスマンばかりが生みだされる可能性はちいさくない。(58ページ)

この本のこれ以降は、いわゆる和田式受験勉強法の紹介と、受験学力を身につけるプロセスが実は生きる力として有効だという主張になっているので、この辺でひとまずお終いにします。とにかく、今回の改革は矛盾だらけ、問題だらけというのが本書の主張でいづれも説得力がありました。本書を読む前に自分は「答申」と「最終報告」の文書を読んで、思ったことを書きなぐりましたが、一部は和田氏の見方と共通する部分があったと思います。

 

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和田 秀樹 著 『受験学力』  (集英社新書) 発売日2017年3月17日