北條民雄(ほうじょうたみお)は、頼病(ハンセン病)になり19歳で療養所に入りますが、執筆活動を開始し、結局23歳で夭折した文学者です。『いのちの初夜』は、頼病の療養所に入った最初の夜の自分の心の動きや行動を描写したもので、もともと北條民雄がつけた書名は「最初の一夜」だったそうですが、文芸誌に投稿されたこの小説を読んだ川端康成が「いのちの初夜」と改題して発表されました。この小説を最後まで読めば、なぜ「いのちの初夜」なのかがよくわかります。しかしさすが川端康成ですね。「最初の一夜」を「いのちの初夜」と直すと、インパクトが全然変わってきます。読み始める前ならともかく、この小説を一読したらもう「最初の一夜」というタイトルは全然物足りなくて、やはり「いのちの初夜」というタイトルのインパクトでちょうどバランスが良いと感じます。
東京からわずか二十マイルそこそこの処であるが、奥山へはいったような静けさと、人里離れた気配があった。
なぜキロメートルの単位でなく、マイルを使ったのか、ちょっと不思議な部分です。
公園を歩いている時でも街路を歩いている時でも、樹木を見ると必ず枝ぶりを気にする習慣がついてしまった。その枝の高さや、太さなどを目算して、この枝は細すぎて自分の体重を支えきれないとか、この枝は高すぎて登るのに大変だなどという風に、時には我を忘れて考えるのだった。
日常的に自殺の方法を考えながら過ごす主人公の心理が描かれています。
病院へはいることが定まると、急にもう一度試してみたくなって江の島まで出かけて行った。今度死ねなければどんな処へでも行こう、そう決心すると、うまく死ねそうに思われて、いそいそと出かけて行ったのだったが、岩の上に群がっている小学生の姿や、茫漠と煙った海原に降り注いでいる太陽の明るさなどを見ていると、死などを考えている自分がひどく馬鹿げて来るのだった。
なぜ江の島?とも思ったのですが、昔、自休というお坊さんが白菊という稚児に恋をして、困った白菊が江の島で身を投げて、自休も同じ場所で後を追ってしまったという逸話があるので、それで江の島なんでしょう。
彼は立ち上がってバンドに手を掛けた。その時突然、激しい笑う声が院内から聞こえて来たので、ぎょっとして声の方を見ると、垣の内側を若い女が二人、何か楽しそうに話し合いながら葡萄棚の方へ行くのだった。‥ 鬼ごっこでもするように二人は、尾田の方へ横貌よこがおをちらちら見せながら、小さくなって行くと、やがて煙突の下の深まった木立の中へ消えて行った。尾田はほっと息を抜いて女の消えた一点から眼を外そらすと、とにかく入院しようと決心した。
自殺を決意して実行しようと思ってベルトに手をかけた瞬間に女性を見かけてしまい、なんとなく思いとどまった情景が描かれます。
眼をそ向ける場所すらない病室が耐えられなかったから飛び出して来たのだった。‥ 頭上の栗の枝に帯をかけた。‥ それでは――と帯に頸を載せたまま考え込んだ。その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿はいていた下駄がひっくり返ってしまった。「しまった」さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。死ぬ、死ぬ。無我夢中で足を藻掻もがいた。と、こつり下駄が足先に触れた。「ああびっくりした」ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋わきの下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。
病棟の頼病患者たちの凄惨さに耐えきれなくなり外に出た主人公は再び自殺を企てますが、決意が固まっていない状態で躊躇しているうちに下駄がひっくりかえってしまい、死にそうなめにあいます。企てが失敗してしまったことから、再度実行する気は失せてまた病院の中に戻るのでした。
主人公である尾田のお世話係になった佐柄木(さえき)は言います。
「他人がとめなければ死んでしまうような人は結局死んだ方がいちばん良いし、それに再び起ち上がるものを内部に蓄えているような人は、定まって失敗しますね。」
尾田が自殺しようとしていた一部始終を見ていたのですが、止めるわけでもなく、しかし生きることを勧めるような言葉を与えています。
「そうですとも、果し合いのようなものですよ」
月夜のように蒼白く透明である。けれどどこにも月は出ていない、夜なのか昼なのかそれすら解らぬ。ただ蒼白く透明な原野である。その中を尾田は逃げた、逃げた。胸が弾んで呼吸が困難である。だがへたばっては殺される。必死で逃げねばならぬのだ。追手はぐんぐん迫って来る。
それまでの会話から突然、緊迫した状況へと画面が変わるのですが、夢を見ているところへ映画でいうとカメラが切り替わったような印象、つまりは、映画的な場面の転換を感じさせる文章の移り方です。作家ってうまいなあと思いました。
佐柄木が尾田に語る内容がクライマックスだと思います。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
人間として生きることに終止符を打ち、新たに癩病の人間であることを受け入れることによってはじめて癩病の人間として新たな人生をスタートさせることができると説くわけですね。だから、この小説のタイトルが、いのちの初夜なのです。
あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。
この作品はいわゆる癩病文学(ハンセン病文学)と称されるジャンルになるのだと思いますが、もはや癩病というのは、場面設定として大きな意味をもつとはいえ、描かれていることは癩病に限った話では全然なくて、人間が人生の途中で大きな変更を押し付けられたときに、それからをどう生きるかということを考えさせるものであって、それが多くの人の心を打つのだと思います。
参考
- いのちの初夜 北條民雄 青空文庫
- 100分de名著 北條民雄“いのちの初夜”せめぎ合う「生」と「死」-絶望の底にある希望 1-4 デイリーモーション